金澤神社

お水取り


お水取りの皆様へ 

場所

境内の手水舎よりお取下さい。(金城霊澤の霊水を汲み上げています)

時間

24時間自由に、お水を取ることができます。夜間は常夜灯がありますが、足元には充分ご注意下さい。

授与所・御祈祷

御守神札授与所・御祈祷は午前9時より午後5時まですが、時間外の場合はお問い合わせ下さい。
御祈祷はなるべくご予約下さい。行事と重なる場合があります。

お砂取り

手水舎横に、清め砂が用意してありますので、ご自由にお取下さい。(写真下)


清め砂

清め砂


写真歳時記

周遊案内


金澤神社拝殿

加賀藩学問所の明倫堂の鎮守の神をして、学問の神菅原道真公の御舎利を祀り建設、後12代藩主の住宅「竹沢御殿」の建設にともない藩主の個人的な祈願所また、兼六園の鎮守とされた。
相殿に災難除・金運の神である白蛇龍神を祀っている。
文化財に指定されている。



手水舎の水(飲料水)

この水は、境内の井戸より二十四時間くみ上げています。
井戸の水源は「金城霊沢」の地下水源と同じくしており、「金城霊澤の水」として地元の方や県外からの参拝者に、広く親しまれています。6月に開催される、県内最大規模の「百万石祭り百万石茶会」・2月に行われる、石川県文化財保存協会による大寒の糊作りや和菓子作りに使用され、戦没者慰霊式典にも供えられております。
蛍光エックス線分析法により分析した結果、カルシウム・鉄分を多く含み、日本百名水として知られる、富山県上市町の「穴の谷の霊水」と似かよった成分パターンを示しおり、また毎年飲用に適しているかどうかの「水質試験」を行っておりますので、安心してご利用下さい。



金城霊沢

その昔山科の里に藤五郎という貧しいけれど正直な農夫が住んでいた。藤五郎が山から掘ってきた「芋」をここで洗うと沢山の砂金が出てきた。藤五郎はこれをひとりじめしないで貧しい人々に分け与え仲良く暮らした。
そこで「金」を洗う「沢」-「金沢」ができた。



夢牛

旧帝展作家
都賀田勇馬氏作奉納
天神様のお使いの牛。なでると夢を叶えてくれるともいわれている。



北条時敬頌徳碑

金沢が産んだ偉大な教育家で四高の校長の北条時敬氏の記念碑



木村杏園誌碑

人間国宝 木村雨山氏の兄で、著名な画家であった。



神輿堂

毎年9月下旬の「御山まつり」に小立野台一帯の厄年の人々によって担がれる神輿が納められている。



いぼとり石

いぼをこするととれると信仰されている御神石。



田中智学の碑

近代仏教会の代表的な人物で、強烈な日蓮主義を唱えた。



板屋神社遥拝所

今から、360年前に当時としては、画期的な技術で金沢城へ用水を引いた「板屋兵四郎」を祀る板屋神社を園内から参拝するための建物。遥拝所横には、石管(当時の水道管)がある。



神門

平成2年老朽化により取り壊され、平成5年に復刻竣工。隋身様と呼ばれる神像が祀られていることから、隋身門とも呼ばれる、またこれにちなんで、二の鳥居前の坂道が隋神坂と名づけられた。
神像の背面に「文政四年辛巳 献上 菅原直時 春正月吉祥日」と記されていることから、加賀藩八家・前田土佐守家7代前田直時の奉納とされる。



奉納稲荷鳥居

平成20年8月 前田家鎌倉邸より、稲荷社御分霊と共に移築奉納された鳥居。前田家に慶事があるごとに奉納された、縁起の良い鳥居である。鳥居の他にも御神鏡・掛け軸・稲荷石像・御神像・観音石像・手水鉢・絵馬など縁の品々二十一品が奉納された。


白蛇さん


巳さん(白蛇龍神)のはなし

当社は天神さん(学問の神)として多くの方に崇敬されていますが、相殿としてまつられている白蛇龍神(通称 白蛇さん・巳さん)も火難・水難・災難除け・金運・商売繁盛の神として多くの方々に崇敬されています。御神体勧請由来記によれば、雄雌二体の白火蛇であるということです。

中国の文献によると、白火蛇とは中国大陸の奥地に千年に一度現れるという蛇で「吉凶を人間に知らせるもの」とあります。つまり五穀豊穣や天災を知らせたといわれています。そして、この蛇が中国から出雲の日御碕に伝えられ、それがここに祀られたとされています。

また、出雲(島根県)の日御碕神社龍蛇神徳記によると、『日御碕神社では、10月11日から17日まで神事斎龍の神事を行なう。この七日間に、海辺風烈し雲あがり波涛が立ち、錦紋の龍蛇が出現する。社人氏人の中で霊夢のお告げを受けたものが、斎戒正装(身を清め衣服を整えること)して、この龍蛇を迎え、これを神前に進めて神楽を奏し、神事を行なう。その時、龍蛇自然と蟠居して(とぐろを巻く事)来年の吉凶を首尾の形で示す。龍蛇は何年を経ても形状を変えず虫食いや腐敗することもない。極陰の月は諸中みな蟄居するが、(かくれる事)日御碕両宮の神徳により出現して一陽来復を告げるのである。(陰気がよりきわまりつきて陽気がめぐり来るという事・凶がつきて吉が来る事)

従って龍蛇神は総身に春の青色と金色とで覆われ、日御碕神社の神紋である柏葉の形を首尾に顕している。龍蛇は龍神の使いなので、龍蛇神として祝祭する。龍神の分身なので、日御碕の地には往古より火災がなく、田畑には旱魃の憂いもない。そこで龍蛇神を尊信する土地には必ず火災が消除され祈雨の霊助を蒙ることが多い。』

この神徳記と同じようなことが「耳底記」(古事類苑神祇部 日御碕神社の項)にも記されています。
『日御碕の神事の節は神主海辺に至り、波打ち際に立居ける事なるが、毎年日時を違えず、沖の方より藻の上に小蛇とぐろして流れより候を、神主両手にて受けて、直ちに神前にそなえ候恒例なり、右蛇或いは一日、又は両日程そのままにて動かずして死しにける。夫を直に干しため、年々の蛇形を納め置くに、信仰にて乞候ものあれば、付属して遣しける・・略』
とあり、これらの事によって白蛇さんの由来と霊験を知ることができます。

白蛇さんは前にも述べたように雄雌一対あり、一体は金沢神社にもう一体は城中に納められ、城中に納められた一体は代々の奥方により火難除け・火伏せの神として祀られていたのですが、戦後神社に納められ現在では二対とも本殿に祀られています。

また白蛇さんが祀られた藩政期より白蛇さんのお姿を写した掛け軸を年百体奉製し藩士や城下の主だった家々にわかち与えたとされています。現在でも金沢の旧家の土蔵から、この掛け軸が見つかった話をよく耳にします。

更に、近年では火災よけや火伏せの神だけにとどまらず、龍蛇信仰と金城霊澤の砂金伝説とが結びつき、水の神・金運の神としても仰がれ水商売関係者の信仰を集め、また商売繁盛の神として広く商売を営む方々の信仰を集めています。

そして毎月1日を白蛇さんの日と定めて、御神体を開帳し開運厄除けの祈願を行なっています。(毎月1日には雄1体を開帳・正月には雄雌2体を開帳)


舞楽 蘭陵王

舞楽 蘭陵王


天神様

御祭神 菅原道真公

御祭神 菅原道真公について

菅原道真(すがわらのみちざね)公(こう)は貞和(じょうわ)十二年(八四五)乙丑六月二十五日にお生まれになりました。
代々の学者の家に生まれた道真公は、幼少の頃よりその才覚を現し、四.五歳で書物を読み始めると、十一歳のときに初めて漢詩を詠み、十五歳の頃には立派な漢文の文章を残すようになり、神社やお寺に奉納の願い文を依頼されるほどでした。

道真公はこの後さらに勉学に励まれ、十八歳で文章生(もんじょうしょう)、二十三歳で文章(もんじょう)得業生(とくごうしょう)という特待生に選ばれます。今で言う大学、大学院と進学されていくのですが、奈良・平安・時代の大学は学生がおよそ二百人で、その中で文章生になれるのは約二十人、文章(もんじょう)得業生(とくごうしょう)に選ばれるのは二人と大変狭き門でした。文章(もんじょう)得業生(とくごうしょう)はさらに方(ほう)略式(りゃくしき)という大変難しい国家試験を七年のうちに突破せねばならず、そのために道真公はとても熱心に勉強され史上最年少合格を果たされます。生涯を通して学問に心血を注がれた道真公は、十代の頃には

「恨むべし いまだ学業を 勤むること知らずして 書斎の窓下(そうか)に 年(ねん)華(か)を過ごさむことを」(もっと頑張らないと月日はあっという間に過ぎ去っていくぞ・・・)

と自分を戒め、国家試験に臨むときには

「光陰(こういん)常(つね)に足らず 朋交言笑(ともこうげんしょう)を断ち 妻子親笑(さいししんしょう)を廃す」(友達と世間話をする暇も惜しい)

と言うほどでした。

努力の甲斐あって方略式を合格された道真公は、いよいよ官吏(かんり)(国の仕事を司る人)の道を歩み始められます。その巧みな文章力と、外交や書記官の仕事を任され、その誠実なお人柄で、人望と実績をあげられます。

やがて文章(もんじょう)博士(はかせ)になられ、大学で文章(もんしょう)道(どう)を教え、国の帝(みかど)や重臣にも講義をなさいます。ひたむきに努力して培われた語学と文才を活かされながら官職を順調にこなされた道真公にも転機が訪れます。

四十二歳のとき讃岐(さぬきの)守(かみ)(今の香川県知事)の仕事を命ぜられます。語学文学と違って地方行政の仕事でしたが、任地(讃岐の国)をかけめぐり農民の生活ぶりと稲作の出来具合を訪ね歩き、誠心誠意民政に尽くされました。

四十六歳になった道真公は、宇多天皇により再び都へ呼び戻されます。帝の信頼が厚い道真公は、僅か数年で権(ごん)大納言(だいなごん)に昇進されると、醍醐(だいご)天皇の御代には右大臣に任命されるという異例の出世をなさいます。この頃は道真公の絶頂期で、和歌や漢詩のおいても数々の作品を残されています。

「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手(た)向山(むけやま) 紅葉のにしき 神のまにまに」
満山紅葉破小機(まんざんのこうようしょうきをやぶる) 況遇浮雲足下飛(いわんやうきくものあしもとよりとぶにあおうや) 寒樹不知何処去(かんじゅはしらずいずれにかさる) 雨中衣錦故郷帰(うちゅうににしきをきてふるさとにかえる)

この歌は小倉百人一首にも選ばれている有名な歌で、漢詩は同じ時期に書かれたものです。

こうして宇多天皇の御代と醍醐天皇の始めの頃、国の要職を一手に引き受けてきた道真公でしたが、そのあまりの台頭ぶりに官人達の妬(ねた)みをかい、悪い噂を流されてしまいます。このとき五十七歳の道真公は延喜(えんぎ)元年(九〇一)一月二十五日、突如大宰府(だざいふ)への左遷を決定されてしまったのです。二月一日は身支度もそこそこに九州への長旅に出立せねばならず、また道中の国々にも食料も馬も与えてはならぬという厳命が下されていましたし、家族もそれぞれ散り散りに流されることが決まっていました。

「東風吹(こちふ)かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春は忘れそ」

このとき自邸の紅梅殿で詠まれた歌には、道真公の心情を表す何とも哀しい響きが伝わります。

大宰府に幽閉されて僅か二年後の延喜三年(九〇三)二月二十五日、道真公は五十九歳にてその至誠と正直の生涯を閉じられます。

去年今夜侍清涼(きょねんこんやせいりょうにじす) 愁思詩編独断腸(しゅうししへんひとりだんちょう) 恩賜御衣今在此(おんしぎょいいまだここにあり) 捧持毎日拝余香(ほうじしまいにちよこれをはいす)

菅原道真公は、その功績とお人柄を称えられて、「天神さま」「天満宮」「天神社」「菅原神社」「北野神社」「老松神社」の社名で全国各地にお祀りされています。天神様は学問の神様・正直の神様・文化の神様・書道の神様・芸能の神様・詩歌の神様・慈悲の神様と全国の人々にしたしまれています。また古来の雷神信仰も加わって、農耕の神としても人々から親しまれています。


厄除けについて

厄祓い

平成28年厄年一覧

男性

前厄平成5年生(24歳)昭和51年生(41歳)
本厄平成4年生(25歳)昭和50年生(42歳)
後厄平成3年生(26歳)昭和49年生(43歳)

女性

前厄平成11年生(18歳)昭和60年生(32歳)
本厄平成10年生(19歳)昭和59年生(33歳)
後厄平成9年生(20歳)昭和58年生(34歳)
還暦昭和31年生(61歳 男女共)

金沢の厄祓の風習

金沢では、厄年を迎える前年の年度末に神社で厄除けのお祓いを受け、新年を迎えるのが一般的です。(全国的には厄年の節分までにお祓いを受けるようです。)その時に、鏡餅1重・清酒2升をお供えとして持参します。お祓いを受けた後、鏡餅半分と清酒1升は神社に厄を納めるという意味で残し、残りは自宅に持ち帰り家族でいただきます。

また42歳の男性の本厄の時には、親戚などに御餅や御酒を配たり、酒宴を催す事もあります。(厄を分散させ、担いでもらう、という考え方です、またこれから責任ある重要な事もこなせる年齢に達したというご挨拶の意味もあったと思われます。)

当社では厄除け祈願は随時受け付けておりますが、行事の関係上事前のご予約いただければ幸いです。

厄年の話

日本では昔から、厄年といって人生の節々に「何か良くないことがある」「気をつけたほうがいい」といった警告のことばがあります。お祓いをし、厄災を除こうとする行事も行われてきました。厄年と一般的にいわれているのは、女三十三歳、男四十二歳の大厄とその前後の前厄、後厄で女十九歳男二十五歳の(いずれも数え年)も厄年であると言われています。確かに厄年と呼ばれる時期には、精神的にも肉体的にも大きな転換期、人生の区切りがあるこることは、だれもが漫然と意識しているはずです。そこに、一種の民間伝承としての厄年があるのは単なる迷信なのでしょうか。それとも偶然としてかたづけてよいのでしょうか。

金沢では昔から、厄祓いが盛んに行われており、特に年末から節分の頃までに数多くの方々が神社へ厄祓いを受けに行かれます。このことから現代でも多くの人が厄年を信じ、関心を寄せていることがわかります。

さて、この厄年はいつ頃から意識されたかと言いますと、日本で最初に厄年のことがでてくるのは『宇津保物語』だということです。作者は源順ともいわれ、紫式部の父の藤原為時とも言われております。いずれにしても、平安時代に書かれたわが国最古の続き物語であって、その中に「左大臣どのやく年におはするとて、大饗せられぬ云々」の一文があるのです。つまり、厄祓いをするために大勢の人にご馳走をしたということなのでしょうが、これを見ても厄年の考え方は、かなり古くからあったのだということがわかります。

平安時代といえば、当時の実力者として知られている藤原道長は、〈この世をば わが世とぞ思う望月の かけたることの なしと思えば〉と地位・権力・衣食住にいたるまで、何一つ思い通りにならぬことがなかったひとが、四十二歳のときに奈良の大峯山に登って、大供養を行っている記録があります。

今日の生理学では、人間の身体の成長や心の発達は、いつも同じテンポで徐々に進んでいくものではなく、ある時期に段階的に、飛躍的におこなわれるということが確認されています。

また、老化についても同じで、細胞の活動力、臓器の萎縮、運動能力や生殖能力の退化は、坂道を下るようにではなく、不規則な階段を下る時のようにしておこなわれていきます。あるところで一段落ちる、だがしばらく平らなところが続き、やがて一段ガクンと落ちる、といったふうに進行していきます。

もっとも、各人各様に異なっている人間の身体の事を、厳密に定義するほうが、あるいは無理があるかもしれません。ようは、その年齢に近づいたとき、厄を通じて健康に気を配り、人生の区切りとして神社などで厄祓いを受け、心身ともに清らかに生活を続けて行く事が大切なのです。


長寿の祝い・年祝い

長寿の祝い・年祝い

長寿を祝う儀式を「年祝い(算賀)(年寿)」といいます。 数えの六十一歳を還暦といいます。 干支は六十年で一巡して初めに戻る、つまり暦がもとに還るのでその由来になっています。

他にも古稀(こき)(七十歳)、喜寿(きじゅ)(七十七歳)、傘寿(さんじゅ)(八十歳)、 米寿(べいじゅ)(八十八歳)、卒(そつ)寿(じゅ)(九十歳)、白寿(はくじゅ)(九十九歳)、 上寿(じょうじゅ)(百歳)などがあります。

これらの年には、無事に人生を送れたことへの感謝と喜びを神さまに奉告します。