天神様
御祭神 菅原道真公について
菅原道真(すがわらのみちざね)公(こう)は貞和(じょうわ)十二年(八四五)乙丑六月二十五日にお生まれになりました。
代々の学者の家に生まれた道真公は、幼少の頃よりその才覚を現し、四.五歳で書物を読み始めると、十一歳のときに初めて漢詩を詠み、十五歳の頃には立派な漢文の文章を残すようになり、神社やお寺に奉納の願い文を依頼されるほどでした。
道真公はこの後さらに勉学に励まれ、十八歳で文章生(もんじょうしょう)、二十三歳で文章(もんじょう)得業生(とくごうしょう)という特待生に選ばれます。今で言う大学、大学院と進学されていくのですが、奈良・平安・時代の大学は学生がおよそ二百人で、その中で文章生になれるのは約二十人、文章(もんじょう)得業生(とくごうしょう)に選ばれるのは二人と大変狭き門でした。文章(もんじょう)得業生(とくごうしょう)はさらに方(ほう)略式(りゃくしき)という大変難しい国家試験を七年のうちに突破せねばならず、そのために道真公はとても熱心に勉強され史上最年少合格を果たされます。生涯を通して学問に心血を注がれた道真公は、十代の頃には
「恨むべし いまだ学業を 勤むること知らずして 書斎の窓下(そうか)に 年(ねん)華(か)を過ごさむことを」(もっと頑張らないと月日はあっという間に過ぎ去っていくぞ・・・)
と自分を戒め、国家試験に臨むときには
「光陰(こういん)常(つね)に足らず 朋交言笑(ともこうげんしょう)を断ち 妻子親笑(さいししんしょう)を廃す」(友達と世間話をする暇も惜しい)
と言うほどでした。
努力の甲斐あって方略式を合格された道真公は、いよいよ官吏(かんり)(国の仕事を司る人)の道を歩み始められます。その巧みな文章力と、外交や書記官の仕事を任され、その誠実なお人柄で、人望と実績をあげられます。
やがて文章(もんじょう)博士(はかせ)になられ、大学で文章(もんしょう)道(どう)を教え、国の帝(みかど)や重臣にも講義をなさいます。ひたむきに努力して培われた語学と文才を活かされながら官職を順調にこなされた道真公にも転機が訪れます。
四十二歳のとき讃岐(さぬきの)守(かみ)(今の香川県知事)の仕事を命ぜられます。語学文学と違って地方行政の仕事でしたが、任地(讃岐の国)をかけめぐり農民の生活ぶりと稲作の出来具合を訪ね歩き、誠心誠意民政に尽くされました。
四十六歳になった道真公は、宇多天皇により再び都へ呼び戻されます。帝の信頼が厚い道真公は、僅か数年で権(ごん)大納言(だいなごん)に昇進されると、醍醐(だいご)天皇の御代には右大臣に任命されるという異例の出世をなさいます。この頃は道真公の絶頂期で、和歌や漢詩のおいても数々の作品を残されています。
「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手(た)向山(むけやま) 紅葉のにしき 神のまにまに」
満山紅葉破小機(まんざんのこうようしょうきをやぶる) 況遇浮雲足下飛(いわんやうきくものあしもとよりとぶにあおうや) 寒樹不知何処去(かんじゅはしらずいずれにかさる) 雨中衣錦故郷帰(うちゅうににしきをきてふるさとにかえる)
この歌は小倉百人一首にも選ばれている有名な歌で、漢詩は同じ時期に書かれたものです。
こうして宇多天皇の御代と醍醐天皇の始めの頃、国の要職を一手に引き受けてきた道真公でしたが、そのあまりの台頭ぶりに官人達の妬(ねた)みをかい、悪い噂を流されてしまいます。このとき五十七歳の道真公は延喜(えんぎ)元年(九〇一)一月二十五日、突如大宰府(だざいふ)への左遷を決定されてしまったのです。二月一日は身支度もそこそこに九州への長旅に出立せねばならず、また道中の国々にも食料も馬も与えてはならぬという厳命が下されていましたし、家族もそれぞれ散り散りに流されることが決まっていました。
「東風吹(こちふ)かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春は忘れそ」
このとき自邸の紅梅殿で詠まれた歌には、道真公の心情を表す何とも哀しい響きが伝わります。
大宰府に幽閉されて僅か二年後の延喜三年(九〇三)二月二十五日、道真公は五十九歳にてその至誠と正直の生涯を閉じられます。
去年今夜侍清涼(きょねんこんやせいりょうにじす) 愁思詩編独断腸(しゅうししへんひとりだんちょう) 恩賜御衣今在此(おんしぎょいいまだここにあり) 捧持毎日拝余香(ほうじしまいにちよこれをはいす)
菅原道真公は、その功績とお人柄を称えられて、「天神さま」「天満宮」「天神社」「菅原神社」「北野神社」「老松神社」の社名で全国各地にお祀りされています。天神様は学問の神様・正直の神様・文化の神様・書道の神様・芸能の神様・詩歌の神様・慈悲の神様と全国の人々にしたしまれています。また古来の雷神信仰も加わって、農耕の神としても人々から親しまれています。