由緒
加賀藩11代藩主前田治脩(はるなが)が寛政6年(1794)に、兼六園の現在の梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を御創建になった。
造営にあたってはときの重臣である奥村河内守・前田大炊・本多玄藩助・大音主馬などが、御造営奉行佐藤勘兵衛、御作事奉行井上勘右ェ門・松田与助などが作業にあたった。
その後、兼六園が整備されるにあたり、藩校は他の地に移転したが、神社は12代藩主前田斉広のときに建てられた竹沢御殿の鎮守として災難除けの神・商売繁盛の神・交通安全をあわせまつり朝夕兼六園を散策された藩公が領内の平和と繁栄を祈願された。
災難除けの神である白蛇竜神の御神体の1体は神社に1体は江戸屋敷にて奥方に代々奉斉されていたが、昭和21年神社に移された。毎年10月1日に白蛇竜神のお姿をうつした神札を百体のみ奉製し、藩公から藩士や城下の有力町民にあたえられたといい、市内の旧家に現存するものが多い。
商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神は明治維新の後、前田家が東京に移住する時その邸内に移されたが、旧藩士の懇願により再び神社に移された。
神社への参拝は明治以前は春秋の例祭のみ、城下の婦子だけが参拝を許され藩公から紋菓をいただいたという。
一般の人々が自由に神社を参拝できるようになったのは明治7年5月7日、兼六園が一般公開されてからである。
現在では、年間を通じ学業成就・商売繁盛・災難除けなどのさまざまな祈願のため参拝する人が多い。
- 菅原 道真公(学問の神・前田家の先祖)
- 白蛇竜神(金運・災難除の神)
- 白阿紫稲荷大明神(商売繁盛の神)
- 琴平 大神(交通安全)
- 前田 斉広(なりなが)公(12代藩主)
- 前田 斉泰(なりやす)公(13代藩主)